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初期技法書原稿について [その他]

初期原稿 横山氏から.jpg
初期技法書原稿 2002.07.11

銅版画技法書を執筆し始めたのは、当時原版のメッキを横山印刷メッキ工業所に依頼したのがきっかけです。

ビュランによる裸婦の原版をメッキに出した頃、メッキ工業所のホームページに何か書いて欲しいと云われ、拙い文章を書き始めました。銅版画に取り組んで5年ほどしか経っていなかったので、何故私がと思いましたが、簡単なものを書いて送ったところ気に入って頂き一つの形になりました。

今のようにネットが普及していない頃で、私自身もパソコンを持っていませんでした。私が原稿を書き、それに添える写真を撮って送ったものをネットに上げて頂きました。その頃はまだフィルムカメラしか持っておらず、自分で作業風景の写真は撮れないので知人に頼んで協力してもらいました。その為、写真撮影の意図を伝えるために絵コンテを描いては説明することになり、それ以後も同じように写真を撮る際には絵コンテを描いています。今のデジタルカメラとは異なり、フィルムカメラの場合はプリントするまで分からず何度も撮り直しました。

そのようなことを続けていると、最初は数ページのものがまとまったものになりました。横山様が更新される度にかなりのアクセスがあったようです。写真にあるものが最初にプリントして送られてきたものです。中央に見える作業台の写真は、今の「銅版画技法」にも使っています。写真を撮り直し、新しく書き足して今は全158頁になっています。

しばらくそのようなことを続け、その後私自身がパソコンを扱うようになってからはすべて自身で行うことにしました。それと同じ頃メッキ工業所の事情により銅版のメッキを受けなくなりました。その時は銅版画作家の間では、ちょっとした話題になったようです。私自身はメッキの必要性がなくなったのと、銅版画の制作を行わなくなったので交信が途絶え今日に至っています。

技法書の掲載を始めたことを記念して、ミトン、アクリルの小片、耐水研磨ペーパーを貼るアクリル板、そしてプレート・ホルダーをプレゼントしたことがあります。もうずいぶん前のことなので、それを手にされた方たちが今も制作で使用しているか否か分かりません。

メッキは一度疵が付くとそのままでは修正ができません。それで一旦メッキをは剥がしてからの修正になります。そのようなこともあって、メッキにはあまり興味が無くなりました。しかしメッキを施した版は印刷の仕事がし易く、後始末も簡単です。何よりも耐摩耗性があります。横山メッキ工業所に出した版は、いつも防錆紙で包んだ状態で返って来ました。


横山氏は尺八の名手で、プラスチックの配管を用いて尺八を作ったり、自称ゲリラライブと称して公園などで演奏を敢行していたようです。その際の写真を送ってもらったことがありまが、とても愉しそうな雰囲気のものです。

余談ですが、メゾチント作家の浜口陽三の原版のメッキ(Musée Hamaguchi Yozo: Yamasa Collection 浜口陽三の作品を収蔵・展示する美術館 1998年11月ヤマサ醤油株式会社が開設)は、横山氏の仕事になります。

横山靖英様には感謝です。

タグ:技法書原稿
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